ホーム > 宮沢賢治人物像

宮沢賢治

宮沢賢治



1896年8月27日 (戸籍上は1896年8月1日)生まれ、1933年9月21日没。
日本の詩人・童話作家・農業指導家。戸籍上は宮澤賢治と表記。
賢治は盛岡高等農林学校卒業後、花巻農学校の教師として農村子弟の教育にあたり、多くの詩や童話の創作を続け、 30歳の時に農学校を退職、独居生活に入る。ここで羅須地人協会を開き、農民講座を開設し、青年たちに農業を指導した。
自らの裕福な出自と郷土の農民の悲惨な境遇との対比が生んだ贖罪感や自己犠牲精神、良き理解者としてのトシの死が与えた 喪失感は作品に特有の陰影を加えた。
賢治の芸術の根底には、幼い頃から親しんだ仏教、特に後に帰依した国柱会での法華経による献身的精神があるとされる。
また特異で旺盛な自然との交感力は作品に極めて個性的な魅力を与えた。賢治作品の持つ圧倒的魅力はこの天性を抜きには説明できない。
生前に刊行された唯一の詩集として『春と修羅』、同じく童話集として『注文の多い料理店』がある。しかし、これら以外にも、 遺稿として発見された完成度の高い作品が、死後多数発表されている。それらには、童話『銀河鉄道の夜』、『風の又三郎』、 『グスコーブドリの伝記』などがある。


略譜

1896(明治29)年

0歳

8月27日、父政次郎、母イチの長男として岩手県稗貫郡花巻町に生まれる。

1898(明治31)年

2歳

11月5日、妹トシ生まれる。

1899(明治32)年

3歳

赤痢が流行する。

1902(明治35)年

6歳

賢治、赤痢を病む。父政次郎も看病中感染。

1903(明治36)年

7歳

4月、賢治町立花巻川口尋常高等小学校入学。

前年の凶作で東北地方飢饉。

1904(明治37)年

8歳

2月、日露戦争開戦。

4月1日、弟清六生まれる。

1905(明治38)年

9歳

東北地方大凶作。

1906(明治39)年

10歳

東北地方大飢饉。日本エスペラント協会設立。

父と有志によって運営された花巻仏教会の夏期講習会(大沢温泉)に参加。

1909(明治42)年

13歳

4月、県立盛岡中学校入学。

鉱物採集に熱中する。

1910(明治43)年

14歳

日韓併合。6月、岩手山にはじめて登る。

啄木『時代閉塞の現状』。

1911(明治44)年

15歳

日この年あたりから短歌制作がはじまる。

1912(明治45)年

16歳

米の値上がりで生活が苦しく、一家離散が多くなる。

5月、松島・仙台方面へ修学旅行。

1913(大正2)年

17歳

東北・北海道地方大凶作。

3月、寄宿舎の生徒皆と騒いで追い出され、盛岡のお寺に下宿する。

1914(大正3)年

18歳

3月、賢治盛岡中学校卒業。第一次世界大戦がはじまる。

この秋、「漢和対照妙法蓮華経」を読み深く感動する。

1915(大正4)年

19歳

4月、盛岡高農農学科第2部(農芸化学科)に首席入学。

1916(大正5)年

20歳

アインシュタイン「一般相対性理論」完成。関西方面修学旅行。

1917(大正6)年

21歳

ロシア革命成立。友人と同人誌「アザリア」創刊。

1918(大正7)年

22歳

米価が大暴騰。米騒動がおこる。シベリア出兵。

4月、研修生になり、関豊太郎教授指導のもとに稗貫群お土性調査をする。

1919(大正8)年

23歳

3月、妹トシ日本女子大学を卒業。

賢治、浮世絵収集に熱中。

1920(大正9)年

24歳

妹トシ、母校の花巻高女教諭心得となる。英語と家事を担当。

5月、盛岡高等農林学校研修生を修了。

1921(大正10)年

25歳

1月、上京。国柱会を訪問し、高知尾智耀に面会。その勧めにより童話を多作する。

8月、トシ病気のため、トランクに多数書きためた童話の原稿を詰め、帰郷。稗貫郡立稗貫農学校(翌年、県立花巻農学校となる)で教壇に立ち、代数・農産製造・作物・化学・英語・土壌・肥料・気象・水田稲作実習などを担当。

1922(大正11)年

26歳

11月27日、妹トシ24歳で永眠。

童話雑誌の創刊が盛んとなる。

1923(大正12)年

27歳

関東大震災。小作人争議、労働争議が激化する。

7月末から教え子の就職依頼のため北海道、樺太へ旅行。

1924(大正13)年

28歳

=作品(詩集・童話・絵本など)刊行する=

『春と修羅』関根書店(序/春と修羅/真空溶媒/小岩井農場/グランド電柱/東岩手火山/無声慟哭/オホーツク挽歌/風景とオルゴール)

『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』東京光原社刊行 杜陵出版部(序/どんぐりと山猫/狼森と笊森、盗森/注文の多い料理店/烏の北斗七星/水仙月の四日/かしはばやしの夜/月夜のでんしんばしら/鹿踊りのはじまり)

5月、生徒を引率して北海道就学旅行。

1925(大正14)年

29歳

『赤い鳥』(大正14年1月号)に、『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』の出版案内広告を出す。イギリス海岸でバタグルミ化石採集。

1926(昭和元)年

30歳

3月、花巻農学校を退職。

下根子で自炊生活を始め、8月羅須地人協会を設立。

12月上京、高村光太郎に会ったといわれる。また、同時期、オルガン、エスペラント、セロも学んでいる。

改造社『現代日本文学全集』刊行。円本時代に入る。

1928(昭和3)年

32歳

8月、稲作指導中に発熱病臥。生家で闘病生活に入る。

化学肥料が普及。硫安の使用量が豆粕とならぶ。

6月、大島に伊藤兄弟訪問する。

1929(昭和4)年

33歳

世界恐慌始まる。小作人争議、労働争議が更に激化。

不景気のため大学卒業生の就職難が深刻となる。

1929(昭和5)年

34歳

春、東北砕石工場主、鈴木東蔵の訪問うける。

1931(昭和6)年

35歳

2月、東北砕石工場の技師となり、肥料用炭酸石灰の販売に奔走する。

9月、上京するが発熱。自宅で臥せる。

11月、手帳に「雨ニモマケズ」を書く。没後遺稿整理中に発見。

1933(昭和8)年

37歳

『国訳妙法蓮華経』千部を印刷し、知人に配布するよう遺言。

自ら体を清め、9月21日午後1時半、永眠。

法名「真金院三不日賢善男子」。

戦後、花巻市の身照寺に埋葬。

inserted by FC2 system